和菓子司・萬祝処 庄之助|大阪相撲の名力士たち|神田

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二十二代庄之助一代記〈第七回〉
泉  林 八

大阪相撲の名力士たち

 今回は、私が明治三十二年から大正十一年まで、二十四年間にわたってお世話になった大阪相撲の名力士について、簡単に書きとめておく(八陣、若島、大木戸についてはすでに述べたので割愛する)。
 平野川善右衛門
 (押尾川)は、香川県大川郡引田町出身。一七五センチ一一○キロ。ぶちかましてからの激しい相撲で、大関としても安定した成績をあげていた。一時荒鹿勝右衛門といったこともある。

 秀の海幸右衛門
 (千田川)は、京都生まれで神戸の兵庫出身。大阪の十両から東京で幕内となり、二場所出場したあと、二十九年九月、大阪へ戻り、三十一年十月、関脇になって若島から秀の海と改名、三十二年六月、大関、三十四年五月限り引退。

 三十五年六月には秀の海の名で検査役として番付にのったが、それより前の五月二十八日に心臓病のため佐賀で亡くなった。
 一七六センチ、一一五キロ、きれいな相撲取りで、きびきびしたきっぷのいい取り口、若島と並び称されるほど強かったが、病気のために引退が早く、横綱の声がかかるまでに至らなかった。

 一の浜音吉
 (猪名川)は摂津の産。一七九センチ八五キロというソップだが、腕のあたりの筋肉が盛り上がり、均整のとれた後年の肥州山のようないい体。若島を倒して優勝(明治三十六年一月)したこともあり、相撲にうまみがあったが、大関は二場所だけで、なぜかあっさりやめてしまった。
 三十六年六月の合併相撲に、東京の横綱大砲を倒す殊勲星をあげている。

 琴ノ浦熊治郎
 (猪名川)は尼崎の生まれ。私の初土俵の場所(三十二年六月)に小結で全勝優勝して翌場所大関に昇進、引退まで、大関を十一場所もつとめた。
 一八二センチ、一三五キロ、当時としては大きな力士だった。 仕切りのとき、手をつかずにぬっと受けて立つ、相手が立てばいつでも立つ大関相撲だった。ゲンコツをひとつふたつみっつと三回握ったときに立つくせがあるというので、国岩が二つ握って三つめにかかるときに立って勝ったことがあった。 不細工な四つ相撲で、つかまえるとじりじりと出るだけだが、体力を生かして堅実な成績をつづけた。

 国岩九八郎
 (不知火)は肥前諫早の人。一六五センチ、八五キロの小兵ながら、一本背負い、たすき反りなど奇手縦横、手取り名人型の力士で、力が強く、強引な相撲を取って、人気があった。
 九  九之助から一軸九八郎と改めて三十二年六月に入幕。
 三十三年六月、国岩と改め三十五年六月、小結に上がって七戦全勝の成績をあげ、翌場所は大関というとき常陸山のすすめで東京相撲へ転向。

 両国梶之助と改名。梅ケ谷、荒岩に勝ったこともあり、太刀山とは四勝四敗、たすき反り、 一本背負いで一勝ずつをあげた。最高位小結。
 四十五年春限り三十七歳で引退、年寄入間川となり、取締に上がり、常陸山・出羽海の死後は出羽海をつぎ、協会首脳として才腕をふるった。

 私も大阪相撲出ということから、東京への移籍や、出羽海部屋の行司として、この親方にはひと方ならずお世話になった。昭和七年、天竜事件の責めを負って辞任してからも、相談役として隠然たる勢力を持っていたが、昭和二十四年一月十一日、脳いっ血のため、満七十四歳で大往生をとげた。

 小島川栄治郎
 (小野川)は、大阪出身。一八○センチ、一一五キロくらいの立派な体で、色が白くてぽっちゃりしていて、ものすごい人気者だったが、相撲のほうはあまり追力のない四つ相撲で、人気に追いつけなかった。それでも大関を三場所つとめた。

 扇海大五郎
 (中村)は、東京生まれで、一七五センチ一○三キロ。三十六年五月に平幕で優勝、その六月の合併相撲で、朝汐、国見山、逆鉾を倒して男をあげた。激しくいきのいい取り口で関脇を長くつとめたが、大関にはなれずじまいだった。
 明治四十年六月、扇海と放駒が大熱戦を展開、土俵際に追い込まれた放駒が回り込んではたいたとき、右手が扇海のマゲに引っかかり、扇海はマゲを引っ張られて土俵を飛び出した。
 そのとき、のちの木村越後の正直さんが、扇海のマゲのあたりを指さして、勝負なしを宣言した。
 現在なら、マゲを引っ張れば負けという規則だから、当然扇海の勝ちとなったわけだが、当時は勝負預かりだった。

 陣幕徳太郎
 (湊)は筑前博多の人で、一七四センチ一○五キロ。平幕時代の三十七年十一月、雷山といっていたころ、合併相撲で無敵横綱常陸山を左四つから寄り切って観衆をあっといわせた。当時の朝日新聞評に「千人が千人、万人が万人、大地を打たるるツチははずれることあるとも、天下の常陸山がこの敵に敗れんとは、思いよらざりし」とあったのをいまも思い出す。

 なにしろ、東京相撲との合併は何度となく行われ、若島、大木戸などが常陸山に挑戦しながら常に完敗していて、常陸山が大阪力士に負けたのはこの雷山からのたった一度だけだったのだから、大変な殊勲だったわけだ。
 関協に上がって陣幕と改め、優勝一度、大正二年五月から四場所大関を張った。

 鶴ケ浜亀吉
 (中村)は鳥取の産で、一七三センチ、九五キロ、左手の中指と薬指がなかった。手取り力士で、突っ張りがあり、とったり、けたぐりの奇襲あり、左四つになるととっさの外掛けが武器だった。呼び込んておいてすばやく掛け倒すタイミングは絶妙といわれた。

 三十六年六月の合併相撲で、太刀山、荒岩、両国、逆鉾を外掛けで倒し、立ち合いのけたぐりで国見山をよろめかせ、出ていくところをはたかれて四つんばいになったがその前に国見山に踏み切りがあって、五勝四敗一預かりという、若島につぎ、大木戸と並ぶ好成績をあげた。
 この大活躍で一躍人気者となり、すぐにも大関とさわがれたが、カッケ衝心のため急死、小結で終わったのはおしかった。

 響矢から改めた 岩友大太郎 (岩友)は河内の人。一八○センチ、一一三キロ。優勝二回、準優勝三回、大関十場所。引退して取締になった。力が強く、土俵際に下がってからはりま投げにいったり、泉川でふりとばしたり、力まかせの、むちゃな取り口だった。

 放駒長吉
 (朝日山)は和歌山の人。大阪相撲の大関から、すったもんだの末、明治四十四年春、相生松五郎と改名して東京相撲に加入、幕内格番付外で取り、六勝二敗一預かり、夏には関脇に上がって六勝四敗の活躍だったが、取り口を覚えられて負けがこむとすぐに見切りをつけ、脱走して大阪へ帰り、放駒に戻って大正二年五月には大関に復活。

 その後も、復帰、脱走をくり返し、のち、名ばかりになった京都相撲に加わって台湾を巡業中、大正十一年に浦里で客死した。
 一六六センチ、一一○キロ。大阪で優勝二回、準優勝三回、大関九場所。二字口まで下がって仕切り、左上手を浅く引き、右から攻めて一気に出るのが身上で、強いという感じより、ハデな相撲の人気力士だった。

 玉の森大吉
 (千田川)は岡山西大寺の生まれ。兄が司天竜福四郎、弟が改心政太郎、三人とも大阪幕内の力士一家。一七三センチ一○八キロ、兄弟の中では体もよく、押し相撲で地力もあり息も長かった。
 小結四場所、大正二年二月の合併相撲で横綱梅ケ谷を押し切ったこともある。
 のち秀の海幸右衛門。彼の娘さんが、現三保ケ関(元大関増位山)夫人、いまの増位山のおかあさんである。

 弟の 改心政太郎 は、一七○センチ八五キロ。行司から転向して力士になった。東京の緑島がどうしても改心に勝てず、西宮の相撲では、改心が故障で吉野川がかわりに出たが、緑島はその代理にも負け「改心の名を聞いただけでふるえあがる」といわれた。最高位は平幕筆頭。

 大錦大五郎
 (朝日山)は、愛知県海部郡鍋田村(現弥富町)の生まれ。一七五センチ、一一三キロ。優勝五回、準優勝三回、大阪では堅実な成績だが、左四つの四つ相撲で勝ち味が遅いため、東京の横綱、大関には歯が立たず、三段クラスにも分が悪かった。しかし大阪力士としてはめずらしくバクチはやらず、温厚な人格者として尊敬され、

 吉田司家は「方屋にのぼって立った瞬間の品位満点」と称賛した。 大正十一年一月限り、三十八歳で引退、頭取になったが、東京との合併を機に廃業、大阪曾根崎新地の取締をつとめ「京糸」という茶屋を経営するうち、昭和十八年に亡くなった。

 千舟川浪之助
 (猪名川)は大阪西成郡千船村(現西淀川区大和田)の生まれ。一七二センチ、九○キロの柔らかい体で、足取りが十八番、関脇五場所。大正二年二月の合併相撲で、無敵太刀山を倒し評判をとった。
 立ち合いに張り手をかまし、太刀山がカッカとして突っ張りにきたところ、右からかっぱじき、太刀山が泳ぐと、すばやくもぐって左足を取り、太刀山にヒザをつかせた。

 同年十月、十三代追風三百年祭・肥後相撲館開館の相撲で、太刀山は十人掛かりをやったが、太刀山は「千舟川をはずしてくれれば二十人でもいい」といったそうな。

 西昇改め八陣太郎(小野川)は淡路鮎原村の生まれ。一七六センチ、九八キロ、怪力で右四つの相撲。四十三年春から三場所関脇をつとめたが、東京へ加わって四海波と改め、小結までいった。彼も東京へ行かなければ当然大関だった。

 松の音音吉
 (中村)は大阪の人。一七○センチ、一○五キロ。大正二年二月の合併相撲で大関の鳳と西ノ海に勝ったが、鳳を倒したあと、どんなもんだいと右手を大きく振って胸をたたいたのが印象に残っている。
 非カを動きと闘志でおぎなう富士桜タイプの好力士で、大正三年五月から五場所間も大関をつとめた。

 加古川辰蔵
(小野川)は播州生まれで、一七三センチ、九五キロ。元来四つ相撲だが突っ張りがあり立ち合いの変化がうまく、人気があった。大正二年二月、鳳の右をたぐって左へ逃げ、鳳が立ち直ろうとするのを突き倒して快勝したこともある。五年に二場所だけ大関もつとめている。

 大門仁王太夫改め 陣幕嘉七(小野川)は播州出身。一八○センチ、一○八キロ。はなれてよく組んでよくの理詰めの相撲で大関を六場所もつとめながら、特徴がなくなんとなくパッとしない存在だった。
 朝日松清治郎
 (猪名川)は大阪岸和田の生まれ。東京の三段目から大阪に加わり、明治四十五年には関脇で優勝、大木戸を二度倒す殊勲もあった。
 大正二年一月、東京に帰参がかない幕内で取りながら、控え力士として前の相撲の判定が気にいらないとたまりから引き揚げたのが問題となり、師匠から破門され、除名された。

 直ちに大阪へ復帰。番付外幕内格で優勝、五年六月には関脇で優勝、六年一月には大関に昇進しながら師匠猪名川から破門され協会から除名された。

 その後また帰参を許され、相当の成績を残したが、十一年五月限り廃業した。優勝三回、準優勝二回、一六四センチ、一四○キロの肥満体で突っ張りが得意だった。 当時、巡業の駅から宿までの人力車は、大関と体重三十貫(一一三キロ)以上の者は二人びきときまっていたが、私が柳井巡業の先乗りのとき、人手が足りず、二人びきは大関だけになった。

 それを朝日松に断るのを忘れたのも悪かったが、柳井の支度部室で「このやろう!」とステッキでたたかれた。頭へきた私は、刃物をふところに、朝日松がフロから帰ってくるのを木戸口で待ち飛びかかっていった。
 朝日松は見物衆の中へ逃げ込み「結局、柳井の勧進元と木村越後さんが仲介にはいって和解したが、私も若いころはこんなむちゃもやったものだった。

 二瀬川宗五郎改め 朝日山四郎右衛門 (朝日山)は大阪鴫野の生まれ。四十三年五月入幕、四十四年二月、東京へ走って鉄甲と改め、夏場所、幕内格で取ったが病後でもあって二勝八敗、再び大阪に戻って、大正二年五月関脇、八年一月大関となり、五場所つとめて十年五月限り引退した。
 優勝二回、準優勝一回、一七三センチ、九五キロ。突っ張り、寄り、投げを得意とした。

 小染川友治郎
 (千田川)は大阪南の高津六番丁の生まれ。和歌山産の朝風、岸和田産の朝日野、高知産の朝山らとともに、子供の土俵入りをやって十歳のころからこの世界にはいったが、他の三少年が体が大きいだけの見世物力士に終わったのに対し、彼だけは次第に強くなり、大正五年一月から十二場所も大関を守った。
 一六一センチ、一一三キロ、優勝一回、準優勝二回。かわいらしい顔で、すこぶる機敏な取り口、闘志がまたすばらしく、大変な人気者。〃大阪協会の金庫〃〃浪花の花〃といわれた。東京との相撲でも、太刀山と預かり、鳳、栃木山、常ノ花を倒したりしている。

  時の矢五郎
 (時津風)は愛媛の人。一七五センチ、九五キロ。左手は握るが右手は開いたままで仕切った。押し相撲で関脇一場所。小結四場所をつとめ、大正五年三月の合併相撲では、横綱になったばかりの西ノ海を押し出して男をあげている。

 その後の力士としては、大正十一年二月に横綱になった 宮城山福松 が一人ズバ抜けていて、朝日嶽留蔵 (三保ケ関、播州生まれ一七○センチ、九五キロ)上州山一(藤島、群馬生まれ、一七ーセンチ、九四キロ)二瀬川忠太郎(朝日山、岡山生まれ、一七六センチ、九九キロ) 平錦芳次 (藤島、播州生まれ、一七六センチ、九八キロ)らが大関になったが、腕っぷしが強かった平錦はまずまずとして、あまりぱっとしなかった。

 明治四十四年二月に入幕した福井生まれの 小嵐七郎 (大嶽)、同年十月入幕の栃木生まれの稲川義正 (朝日山)は、ともに足腰がよく、きびきびした取り口で、大関は絶対という有望力士だったが、二人とも入幕後間もなく東京相撲にスカウトされてしまった。
 小嵐はのちの関脇玉手山、稲川はのちの小結若湊である。

 有若丑松
(時津風)という力士がいた。一七五センチ、九七キロ。大阪生まれで、大正七年から十二年にかけて小結を七場所もつとめたが、田舎の巡業で大関をつとめたときの話。

 本割り結びの一番だから、もちろん締め込みもさがりもつけている。しかしよくみるともうワラジをはいている。「やっ!」とつっかけると、相手も心得ているから、ちょっと突っ張るまねをしてさっと体をかわす。すると有若はとんとんとのめって土俵を飛び出し、そのまた花道へ走り出す。

 花道のはしには若い者がゆかたと帯と財布を持って待っている。 そいつをはおると、そのままさっさと次の巡業地へ向けて歩き出すのだからひどいものだった。
 こんなことがまかり通り、親方衆もあまり文句をいえなくなっていたのだから、大阪相撲が下降線をたどり、次第に東京相撲に対抗していけなくなったのも当然だったのである。

 

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