和菓子司・萬祝処 庄之助|五、人間裏街道、後編|神田
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呼出し太郎一代記、10
前原太郎
五、人間裏街道、後編
思わぬ刑務所入り
向こうでも呼出しに困っていたものだから「そんならやってくれ」ということで話がまとまり、下ノ関を打ち上げて八幡で興行した。八幡の相撲
がすむと、そこへ憲兵がやって来た。
雨が降って来たものだから「寒いだろう」とか何とかいって、自分の外套を貸してくれたりして、何ということなしに憲兵隊へ連れて行かれてしまった。あくる日小倉の裁判所で裁判があって、求刑は六か月、言渡しは三か月の禁錮である。
「控訴するか」
「しません。いいです……」
それで判決が決定した。入営を控えた身の、期日までには帰京しようとは思いながら、ついウカウカと「族がらす」の日を送っているうちに、とうとうその期限が過ぎて、私は思わぬ犯罪者となってしまったのだ。と、その時、私といっしょに判決を受けた女がいる。
子供に知恵をつけて万引きをさせたそうで、懲役二か月とかだった。裁判所から小倉の監獄までの街の中を、深網笠、腰繩でその女と二人いっしょに歩かされたのだが、その体裁の悪さばかりは、いま思い出してもぞっとする……。
こうして、私は十二月(明治四十一年)の二十六日に小倉刑務所に放り込まれたが、しかし、泥棒をしたわけじゃなし、ただ兵隊の召集期日に行かなかったための禁錮刑だったから、何もすることもなし、退屈でしょうがない。
看守で相撲の好きなやつがあって、それがちょいちょい相撲の話を聞きに来る。そんなふうで看守のほうでも大目に見てくれるから、非常に気が楽だったが、何しろ退屈でしょうがない。何か仕事をやらせてくれといって、畳の糸つなぎを志願した。
毎日六十本もつないで退屈をしのぎながら、ようやく三か月の刑期が終わって、忘れもしない三月の二十六日に再び大手を振って歩ける身体になった。
刑務所を出る時に、「これはお前が働いた工賃だ」といって渡されたのが、例の畳糸つなぎの金で、大枚三十二銭也だった。たとえ三十二銭でも、これは思いがけない金だったので、まず表へ出てまっ先に飛び込んだのが煙草屋、五銭のゴールデン・バットを思う存分腹の底まで吸い込んだ。それから続いて羊かん一本買い込んで、小倉から門司まで歩いて行った。
門司の警察の前まで来ると、巡査が、「オイ、ちょっとはいってくれ」というから、黙って警察にはいって行くと、
「お前、どこから来たか?」
「どこから来たもヘチマもあるものか。やっと放免になって今朝出してもらったばっがりだ。こんなの引っ張って来たってしょうがないでしょう。小倉から門司まで歩いて来たんで、悪いことする暇なんざアありませんよ」
「そうだろう、何を持っているか」
こっちもむかっ腹が立ったから、扇子と召集状を見せてやった。
「まァいいや…」
「まあいいや、もねえもんだ。こんなバカなことがあるもんか。さよならッ」といってやった。さて、門司には、不知火という、京都で相撲をしていたやつが仲仕をしている。そこへ行って「実はこれこれでえらい目に会っちゃった。まァやっと放免になっだが……」
と話をして、そこで塩湯に入れてもらったが、すっかり監獄のアカを落とし、きれいさっぱりしたときの嬉しさも今もって忘れられぬ思い出の一つである。
今の刑務所では、どんなことになっているかしれないが、その当時の監獄の風呂なんというものは、実にたいへんなシカケだった。ちゃんと看守がついていて、時計と睨めっこしながら、七分きっかりに「七分だ、出ろッ」と命令されて、ぬるいも熱いもいっていられない。
私は幸いに泥棒や何かと違うから、一番古いやつといっしょにはいるのだが、古い入獄者はなかなか図々しい。看守が「七分」というと、「こんなぬるい湯で出られるかい。風邪引いちまわァ」と、悠々とはいっている。また看守が催促すると、
「まだまだ」
なんていうものだから、看守の方で顔負けしてしまう。私はそういうのといっしょにはいったからゆっくりはいれたけれども、何しろ一週間に一ぺんだけだから、風呂ずきの江戸ッ子は堪まらない。そのアカを門司の塩湯ですっかり落とし、不知火の好意で、広鳥に相撲があるというのを頼りに、今度はまた広島に向かったのである。
ついに同僚・亡者となる
広鳥に着いてみると、朝日山というのと鹿児島というのが、共に大関で相撲をやっている。その仲間に私もはいり込んで、広島から宇部あたりで興行しながら、島根県の三戸谷で仲間喧嘩をして、稲妻という力士以下六人が私の方について別れ別れになった。私とともに七人で坂根という所に行き、世話人を訪ねて何とかしてくれと頼み込んだ。
そこで、お宮に土俵を築いて百姓さんたちを集め、若い者に甚句を謡わせる。終わったところで、お盆を持って回ると十銭、二十銭、五十銭と集まって三円ぐらいにはなる。三円あれば七人の宿賃は十分出る……。
それから、石州(島根県)の大田に出ようとしたのだが、途中の別府という所で、例のごとく宿屋に頼んでお宮を貸してもらい、さっそく土俵を築いて稽古を始めた。すると稽古が始まるが早いか、下の方で「火事だ、火事だ」という騒ぎだ。さっそくみんなで飛んで行って手伝ってやったが、相撲取りの連中の火事の手伝いは見事なもので、非常に働いてやったものだからみんな喜んで、相当なお礼が来た。お蔭でここでは楽々と、 二晩泊まって大田に向けて出発した。
ところがその途中で、たいへんなことが起こってしまった。というのは、仲間の一人が脚気衝心で死んでしまったのだ。九月の末だったが、島根県という所はなかなか寒い。浴衣一枚では何ぽ相撲取りでも堪まらない。とうとう仲間の一人が、脚気がひどくなってもう歩けないといいだした。
この男は徳島の在の人間で、頭は坊主だった。向こうの方から荷車が来たので、これに頼んで病人と荷物=荷物というのは昔、旅行用にみんな持って歩いた合財袋というやつ=病人には絣の着物を着せ、その前に合財袋を置いて輓いていってもらった。羽生村という村の汚ない宿屋に着いて、
「おばァさん、今夜厄介になりたいんだ。実は後から、相撲取りのいいやつが来るんだが、おれたちは、先乗りでね。全部で七人だ…」
見ると車に乗った相撲取りが、前に荷物があるから威張っているように見える。それをみて、宿屋の婆さんも安心したものか、
「へえ、七人さんですか、よろしうございます」
と、やっとの思いで泊れることになった。けれども、宿賃はろくろくないのだからまことに心細い。伸間の一人が、この先一里ばかりの所に相撲の好きな町があるから、その町へ行けば何とかなるだろう、何とか話してくるからと出かけて行った。こっちはこれでとにかく病人は安心だ。
「どんなことがあっても看病してやろう」というので医者を呼んで、何かしらないが注射などしたのだが、その晩おそくとうとう衝心を起こして死んでしまった。夜が明けると宿屋の婆さん、
「早くあれをどっかへ持って行ってくれ」
「冗談言っちゃいけねえ。どっかへ持って行ってくれったって、ゼニなんざァ一文もありやしねえ。おれたちだって、何もこいつが死ぬとは思っちゃいなかった。どこへ持って行けったって、死んだものを担いで行くわけにいかねえじゃねえか。そんなことしたら仏様が化けて来るぞ」
と、怒鳴るものだから、婆さんびっくりしやがって、
「この先に大阪屋という料理屋があるが、そこの旦那は親分さんだ。そこへ行って何とかしても
らいなさい」と、教えてくれた。しょうがないから、そこへ行って、
「実は大阪へいくつもりで、花相撲をうちながらここまで来たんですが、仲間の一人がゆうべ脚気で急死してしまって、手も足も出ません。大阪へ行ったら必ず御恩は返しますが、死んだ者が可哀想です。何とかいい方法はないでしょうか」
「それはまァだ。それじや何とかしてやるからおれといっしょに来い」
と、呉服屋にいっしょに行って、送り箱をもらってくれた。その上、その親分が香典だといって二円くれた。田舎の人は正直だから、近所隣りからは饅頭なんぞをくれるし、医者の注射料二十銭というのもまけてもらって、死体を箱に入れて山の上に運ぶのだけれども、痩せても枯れても相撲取りだから物すごく重い。
葬式の夜が大荒れ日
やっとみんなで担いで運ぶには運んだけれど、山が赤土でかたくって掘れればこそ、深く掘りたかったけれどもとても掘れないので、いい加減にして埋めてみると、土はほんの一尺ぐらいしか掛からない。しかたがないからそれで我慢して帰って来たところが、その晩が暴風で大雨だ。
翌日山へ行って見ると、一尺ぐらいしか土が掛っていないものだから、すっかり流されて箱がとび出している。これではあんまり可哀想だからと、更に掘って、やっと少し深く埋めてやった。 死人の方はどうやらこれで片がついたが、「何とかしなくちゃァお互いがしょうがないじゃないか」
「そうだ、いいことがある。あいつが死んだんで、あそこへ墓標の一本も立てといてやりたいと思いますからといって、奉加帳を持って町を回ろうじゃないか。そしたら幾らかずつ寄付してくれるだろう」
「なるほどそれはいい考えだ」と相談一決した。さっそく帳面をこしらえて、
「あいつが死んだんで相撲もできませんし、仏を埋めたまま帰ってしまうのも可哀想ですから、せめて小さな墓でも建ててやりたいと思います。どうぞひとつ、何分の御同情をお願いします」
と、みんな町中を、回って歩いた。どこでも「それァ気の毒だ」と十銭、二十銭と書いてくれる。帰って見たら七円ほど集まった。石塔は二円でできたから、それを山の上へ置いてやって、残りの五円を持って尻尾を巻いてずらかってしまった。
やっと広島の近所までやって来て、小田というところの駐在所の前までくると、巡査が立ってじっとこっちを見ている。こっちは何も知らないから、平気で駐在所の前まで来ると、
「オイオイ、ちょいと来てくれ。まァこっちへはいれ。--君ら一体どこから来た?」
「どこからって、ワシら浜田から来ましたよ」
「お前たち、何か悪いことしたろう?」
「冗談言っちゃいけません。ワシら一銭一厘だって、人様のものなんかとるような悪いことした覚えはありません」
「そんなこといったってだめだ。こういう所で集めた金を持って逃げて来たろう。ちゃんと告訴が出ているんだ、白状しちまえ」
「冗談言っちゃ困ります。どんな告訴がが出ているかしりませんが、それじゃすっかりお話しましょう。これこれこういうわけで、死んだ仲間はちゃんと山へ埋めて、みなさんにお願いした金でちゃんと石塔建てて来たんです。残った金が五円あったけれども、これはわれわれがお願いしてもらった金だ。その金を持って来たのがどうして悪いんですか」
といってやった。
「そうか。よくそんなに友だちを世話してやった。そいつはいいことをした。えらい、えらい、それじゃもうそれでいい。悪かった悪かった、まァゆっくり休んで行け」
といって、警察の方へ電話で報告するやら、おかみさんを呼んでお茶菓子などを御馳走してくれた。まずまず、そこをどうやら無事通過して広島へ到着した。
力士は二円、私は五十銭
そういうふうだったから、自然仲間割れがして、それまでの六人組もこわれてしまった。また、一方の鹿児島という方の組も解散状態で、聞けば鹿児島というやつは、広島県の戸田という所の親戚の醤油屋にいるということが、広鳥へ来てからわかった。
私も一人になって行く所がない。しかたがないから、その鹿児島という相撲を訪ねて行った。戸田の醤油屋に行って見ると鹿児島がいる。こっちは食うこともできないで必死だから、ここで嘘をいってやった。
「オイ、えらいことになっちゃったぞ」
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもありやしない。警察からお前とおれをさがしに来ている。なぜといって、お前もおれも悪いことしている。そいつがバレたらしい…」
悪いことというのは、その時分褌を買って来ては質に置く。その褌というのが縮緬のように見えるけれども、実は人絹の安物だ。けれども田舎の質屋は、人絹だか本物だかわかりはしない。
そこへつけ込んで、三円ぐらいで買って来たものを四円、五円で質に置いたものだ。 それからテンプラの金の指輪が、大阪で二円六十銭でできる。中が鉛で金をかぶせたイカサマ物だが、それを質屋に持って行く。質屋では本物かどうかを試すのに、それを硫酸の中へ投り込むんだがわからない。みたところ本物そっくりだ。
当時一匁の金が四円五十銭だったから、二匁あれば九円、それが三匁ぐらいのやつが二円六十銭で買えるのだから、質屋へ持って行くのだ。たまたま警察に捕まっても「いや、私はそれはどこどこで旦那にもらったんで、私は本物だと思っておりました」といえば、警察でもどうしようもない。それを鹿児島がやっていることを私が知っているので、そこをつけこんでそういっておどかしてやった。
鹿児島というやつは、堂々たる体格で髪を結っている。こっちは坊主で、くすぶっているから人が相手にしない。だから、そういうところをだしにしてやれば何でもできるのだ。
「お前もこんなところで、警察にやられたら困るだろうから行こう行こう」
と、引っ張り出すことに成功した。「今夜は泊めて貰うよ」と、その晩はそこに泊まって、あくる日「ちょっと他所へ行って来ますから」と二人で飛び出してしまった。
相撲の鹿児島の話によると、柳井に学生相撲があるという。で、そこへ 二人で行って、稽古台になってやったり、いろいろ世話をしてやったら、お相撲さんには二円出したが、私には五十銭しかくれやがらない。それでもしかたがない。もっとヨコせというわけにも行かないから「まあ、いいや」で、それから今度は呉へ行った。
接骨医の玄関番
呉では、柔道の先生の所へ談じ込んだ。この柔道の先生というのが、なかなかちゃっかり屋で、柔道なんかあまり教えるというほうじゃない。柔道で怪我をしたり、その他いろいろなことで骨折したりして来るやつを待っているほうが専門なのだ。そのおやじに話しをして、使ってくれと頼み込んだ。
「ヨシッ。そんならおれが引き受けた。おれのうちにいて玄関番でもやっていろ」
「お願いします」
というわけで、玄関番をやることになった。病人が来ると、このおやじの治療にかかるまでの仕度が、えらくもったいぶるんだからたいへんな騒ぎだ。やっと仕度ができて治療にかかると、
「これァたいへんな怪我だ」
とおどかして置いて、一週間でも治るものは二週間、三週間と引っ張って行くという式にやっている。どうやら、この玄関番で落ち着いていたので、食うだけは困らないのだが、そのうちに道楽者の私のことだから、とうとうアレを踏み出してしまった。…熱は出るし、痛くはあるし、そうかといって医者に行くには金はなし、切るといったってそういう家の玄関番だからそれもできないし、これにはホトホト閉口してしまった。どうにもならないので、いい加減な薬を飲んでいたら、愚図々々しているうちにヨコネも首尾よく引っこんでしまった。
いつまで玄関番をしていてもしょうがないし、相撲社会にはいっていさえすれば飯が食えるのだから、何とかしてその方に行きたいと思うのだが、呉にいたんでは相撲がしょっちゅうあるわけじゃないから、それは思うようにならない。こいつはもう一ぺん大阪に行こう、あそこへ行けばなんとかなるだろうと、柔道の先生の家を飛び出して大阪へ行ってみた。
大阪の土橋という所、あそこは昔からの相撲場だった。何かうまいことはないかとブラブラ歩いていると、
「オオ、太郎じゃねえか」
と呼ぶやつがいる。見ると滝さんという、昔子供の時分にいっしょにやった呼出でそれが大阪へ来て世話人になっている。その滝さんは、後に年寄湊由良右衛門になった人だ。
「ああ、おれは太郎だよ……お前さん滝さんかい」
「そうだよ、ずいぶん変わったじゃねえか。 一体どうしているんだい?」
「どうもこうもありやしねえ。相変わらずで困っているんだよ。こうこういうわけで、大阪へ来
たばかりなんだ」
「そうか。それじゃしょうがねえ、もう一ぺんくるか」
「いや、そうなりァこんないいことはねえが、それァだめなんだよ。この前もお詫びに行ったけれども、ケンもほろろでね」
「そうかもしれねえが、お前さえ辛棒する気なら何とかしようじゃねえか」
それじゃ、よろしく頼むということで話が決まって、旅館で飯を食わしてもらって滝さんの返事を待ったが、結果はやはりだめだった。鬼面山、梅の森などという相撲取りが「太郎というやつは知っているが、あんなの仲間へ入れたら、俺たちのクビを切って持って行っちまうかもしれねえ、あんなのはだめだ」とかいったのだそうで、がっかりしてしまった。それでも滝さんが心配してくれて、今度は大関の大木戸のところヘ、二人で頭を下げに行った。大木戸関も、
「そんなにいうなら辛棒するだろう。滝、お前何とかしてやれ。おれがあとは引き受けるから……」
「それでは何分お願いします」
ということで、大木戸が責任をもってやっとはいることができた。後の第二十三代横綱、大木戸森右衛門関が、ロをきいてくれたのだから話しは通りがよい。しかし、さてはいったことははいったがやっばり仕事のほうは、巧く行きそうもない。もっとも、使ってくれるほうもかなりわからず屋のところがあって、結局、こっちのカンに障るというわけでもあるのだが……。当時相撲場で番付を売るのに、一枚三銭で十枚持って行く。これを売ると五枚で十五銭になる。私が売っていると、
「太郎さん、お金は?」と来る。
「まだ売ってるじゃねえか」
「だけれど五枚売ると十五銭だ。そいつをお前に持たして置いたら使っちゃうから……」といいやがる。バカバカしくって、そんなのを売る気になれやしない。「勝手にしやがれ」と思って、番付なんぞ売らないで働いていた。すると滝さんの親分で、先々代の時津風という相撲協会の取締役をしておった親方が、
「太郎というやつをおれの所へよこせ、おれの用事をさせよう」
ということになって唐錦豊次郎(時津風の力士名)親方の所で働くことなった。こっちはそのころまだ二十四、五の盛んな時分で、身体は丈夫だし、経験は相当あるし、櫓なんぞ二人できずき上げてしまったりするもんだから太郎というのは大したものだ、と非常に調法がられた。
力士団五人 馬が六人
そのうちに、土佐の高知で大阪の大相撲をした。土佐を打ち上げてから大相撲と小相撲に別れたのだが、私は小相撲のほうにやられた。行司は後の玉之助で、高知を打ち上げて伊予の方へ歩いて出たのだが、十一月(明治四十二年)の中頃からあくる年の五月まで、方々興行したうちで、もうかったやつというのはたった一か所しかない。
あとは全部損なのだ。清水という所などは「太郎、先へ行けよ」と先発させられたが、そこでやったらまるで見物が来やしない。中村へ行くだけの船賃だけしか上がらない。みんな勘定払う所へは、
「あすの朝払うから来てくれ」
といっておいて、朝までにお相撲さんを全部船へ乗せて出発させてしまった。私は宿へ帰って寝ていると、朝になって「おはよう」とみんな集まってきやがった。お相撲さんが泊まった宿屋は六軒だった、
その六人を二階に集めて、「実はきょうお払いしようと思って用意していたんだが、お相撲さんが不景気で、小遣がねえから貸せというものだからみんな持たしてやっちゃった。お相撲さんはどうしたって先に行ってもらわなくちゃならないから、しょうがなかったんだ。しかし、金はすぐに、先に行った方から必ず送って来ることになっている。もし送って来なかったら、大阪へ電報打って取り寄せるから待ってくれ」
「そういうことなら宜しうございます。待つことにしまょう」
と承知してみんな帰っちゃった。そんなことでゴマ化したようなものの、元より金の来る当てなんぞはぜんぜんありやしない。しかたがないから泊まっていた家の婆さんを呼んで、
「お婆さん、実はな、向こうからよこす金があってもよこさないし、お宅に送惑をかけるのはおれもいやだしするから、あすの朝船で中村へ行くことにした。中村へ行けば何でもかんでもお婆さんに上げるから、いっしょに来てくれないか」
といったら、このお婆さん、中村までついて来やがった。中村に来てみると、もう相撲はすんでしまって、相撲取りはまさにわらじをはいてバラバラ旅館を出て行くところだった。ここの興行だってもうかったわけじゃないから、婆さんに金を払うこともできない。
すったもんだで結局、婆さんを初め、後から追っかけて来た馬を六人引っ張って、伊予の宇和島の近所の吉田という所まで行った。私たちの仲間が五人しかいないのに、馬のほうが六人いやがる。いい旅館などに泊ったら高いから、いずれも木賃宿みたいなところに泊っていた。
吉田でも勧進元はないのだから、どうにもしょうがない。すると一行の中に、押尾川と時ノ矢という大阪の関脇がいた。これはなかなかいい身体をしていたので、吉田の泉屋という金持がヒイキにしてくれて、「そんなことじゃしょうがない。暫くうちで稽古しなさいしと親切にいってくれた。それでやっと息がつけた。
六人の馬はそこで、少しばかりの金でゴマかして追っ払ってしまった。お相撲連中も金持から米をもらって、ここで十二月いっぱい稽古をさしてもらい、やっとの思いでお正月(明治四十三年)に大阪へ帰って来た。